(2)支援拠点を作る 1

阪神淡路大震災の場合

 被災直後の災害地は、個人よりも集団で行動したほうがより効果的に仕事ができます。チームプレイによって大きなセクションを担うことができるし、継続性、組織性で優れているからです。

 1995年1月17日、阪神淡路大震災当日。私は自分が所属する複数のネットワークに連絡をとり、即日「救援委員会」を発足。その2日後には調査団として神戸にいました。被災地を回り、大混乱の行政窓口や避難所を何カ所も精力的に訪ね歩きました。
 被災直後の現地は確かに大混乱でしたが、無秩序ではありませんでした。どこも手が足りず、疲れていました。遺体と同室だったり、部屋と廊下の区別もないような避難生活で、人々の置かれた状況は劣悪でした。しかし、ある種のすがすがしい人間性が支配して最悪の状態を免れているように思えたのです。これは不眠不休で頑張る各所のリーダーたちから醸し出されたものかもしれません。そして、そうした避難所のリーダーたちから「ここよりも、もっとひどい所がある。そこを助けてくれ」と言われ、私たちは神戸市東灘区に向かいました。

 凄まじい情景でした。100%近い家屋の倒壊率。道はどこも崩れた家の残骸でふさがれていました。私たちは3カ所の大規模避難所を見てまわり、最も混乱を極めていた「東灘小学校」を活動拠点に据えることを決め、校長、PTA会長、自治会、区職員らと話し合い、即日行動を開始しました。

合同ミーティングと臨機応変の対応がカギ

 東灘区の避難所には人、人、人。何がどこにあり、誰が何をしているのか分かるシステムもありません。災害時の避難所は小学校と決められてはいても、そのための準備も訓練も、ましてや事前の打合せなどあるわけもなく、とりあえず避難所の機能の整理から仕事は始まりました。教員、区職員、住民、ボランティアの各々の役割を決め、助け合う形を作ること。避難所生活者と周辺住民ができるだけ苦痛の少ない形で生活できるよう、可能なことを“計画的に”行うこと。手探り状態でもがきながら、なんとかミーティングを始めました。このような状況下では、コミュニケーションのための合同ミーティングが非常に大事なのです。そして、ポンポンと飛び込んでくる新展開の事態にはマニュアルよりも“臨機応変・即断即決”の処理能力が本領を発揮します。普段は「打合せと違う」とスタッフからは評判の悪いアバウトな方法が、このような場では最も役に立つのです。

 野外教育やキャンプは、本来、非常時に備えるトレーニングから始まったものです。それを考えると私たちがここで働くのは当然の役割だし、日々そのために腕を磨いてきたといっても過言ではないでしょう。少なくとも一般の方より、こうした事態への感性も鋭いはずなのです。(1995年3月2日「阪神淡路大震災に思うこと」より)

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「災害救援と野外教育」から「自然学校と復興支援」へ  広瀬敏通

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