朝のうち、東の風、後、西の風。

朝から夕方まで海も山も変に白っぽい霧のような大気が東北全体を覆っていました。

 

今日は地震と津波の発生から10日目。

80歳を越えたおばあちゃんが救出されたとのこと。胸が熱くなりました。

72時間をデッドラインとする考え方は、72時間を過ぎると急速に生存率が下がるという話しであって、被災者は72時間までしか生きないということではありません。

でも、メディアもレスキューもその真実をどこまで分かっているのか。

 

今朝は天童市の現地本部にはモンベル北陸物流拠点から届いた支援物資が約30トン到着しました。その荷受作業と仕分け作業に地元山形市や山形大学から27名のボランティアが朝から来てくれ、泊まり込み部隊をいれると50名を越える人数が作業に当たりました。

 

わたしは朝からモンベル辰野会長と車2台に物資をいっぱい積んで登米〜気仙沼に行って来ました。

登米では、旧東和町の廃校となった鱒淵小学校体育館をエコセンRQが前線拠点として使うことが決まりました。

明日はここに物資の集積とボランティアのテント村を設置します。

今後、ここが本部を置いている天童市とつながる石巻〜気仙沼の約100kmの沿岸被災ラインの救援拠点になります。

くりこま高原自然学校がここから近く、代表の佐々木豊志さんがこの拠点の責任者になり、北海道霧多布湿原トラストも加わります。

 

石巻、女川、雄勝、河北、北上、志津川、歌津、南三陸、本吉、気仙沼ラインは複雑なリアス式海岸や景勝松島で知られる海縁で、30mを越える津波がほとんどの市街を消滅させています。

今回の地震では阪神のようなぺしゃんこの家が延々と続くような被災はほとんど見られません。

しかし、それを幾百倍も上回る津波災害が史上で最悪の惨事を引き起こしました。

津波はそれを見た人でないと実感できないでしょうが、

電柱をへし折り、車を原型を留めないほどに潰し、家を波のあたった部分だけ削り取る威力です。その破壊力は地上でも最大の力ではないでしょうか。

この三陸ラインは大きな街は無かったために、避難所も少数の人が肩を寄せて集まって寒さや空腹を凌いでいるラインで今後の支援がとても重要なエリアです。

 

宮城県最北端で国内最大の漁港である気仙沼は大きな市街地でしたが、その大半が津波で消滅しました。

海岸線の東浜街道沿いに延びる単線鉄道の気仙沼線は完璧に破壊されて、各所でレールもひん曲がり、遠くに飛ばされています。

出島のようにちょっとした高台にあった家は何事も無かったように無事で、その隣から先は現実感のない破壊の痕になっています。

 

どのような力がこのような運命の分け方をしたのか、無事な家も言葉にならない苦しみを持つに違いないとこを思うと、暗澹となります。

 

気仙沼市、社協、避難所と回り、物資も置いて回りました。

途中の避難所では大きな駐車場にびっしりと駐車しており、それが小さな家となって人々が暮らしていました。

中越地震ではこうした車中泊の人が静脈血栓となる『エコノミー症候群』で4人亡くなっています。

ある小さな避難所には日医大チームが来ており、なんと、私が30年前の1980年にカンボジア難民救援で一緒だったドクターが来ていました。残念ながら彼は留守中で会えなかったのですが30年前に活動していた人がいまもなお、最前線で仕事していることに深い感慨を覚えました。

 

家を失った人は切実に衣と住が必要ですが、家を失わなかった人もじつは食や生活物資がありません。

こうしたニーズに沿った支援を行うためには大きな避難所にドンと支援物資をおくことではミスマッチを免れません。

できれば、ともに避難所や被災地にテントで生活しつつ、物心両面の支援やケアが必要です。

そうした体制の視野に入れつつ、活動を作って行こうと思っています。

 

現地では集まった物資を細やかに配布していく車輌(セダン型乗用車ではありません)と、1週間程度活動できるボランティアスタッフが必要です。

車付きできてください。それも出来るだけ早くに。

マンパワーが集まれば緊急支援の効果を倍増できます。

 

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