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津波の記憶を風化させないために、過去のレポートを集めて紹介しています。
今日はKachun Anders Chanさんがアメリカから寄せてくださった渾身のレポートをご覧ください。

 


こんにちは、
RQでのボランティアに参加した Kachun と言います。香港から参加した中国人ですが、ボストン育ちなので、アメリカ人でもあります。
私は7月に宮城でボランティアをしました。RQでの経験から学ぶことはとても多くありました。そして、ボランティアツアーの担当の方から、もし興味があれば、私のボランティアの記事をRQで公開してみないかというお話をいただきました。記事は英語で書きましたが、日本人の友人が日本語に翻訳ししてくれました。文中にあるポストカードは私が作ったものです。(クリックすると拡大します)遅くなってごめんなさい。

日本とのかかわりをもうすこしだけ。
香港では、日本未発売なのですが、出版に関わったチャリティの本がヒットするという嬉しいことがありました。その本には日本総領事の隅丸さんも関わっておられ、プレスコンファレンスでスピーチをいただきました。
そして、私は日本の高校で臨時英語教師として働いており、ボランティアでの私の経験を生徒たちと分かち合っています。
RQのみなさんありがとう。私のレポートになにかあれば教えてくださいね!
  *Kachunさんの著書、「日本·再出發 - 在日港人311地震後感」は台湾と香港でしか発売されていないようですが、日本では東方書店を通じて入手することができるようです。

 

9月11日

 

被災地の汚臭や衛生問題についてのうわさは耳にしていました。そして七月に被災地にようやく辿り着いた私は過去四ヶ月に渡りずっと外に置いてあったであろう食べ物にハエなどの虫が集る光景を目にしました。だけど、臭いだけで言うならばインドのデリーの方が強烈かも知れません。(インドはインドで大好きですが。)

私が参加したボランティアグループは宮城県石巻市付近にある漁村に到着しました。被災地の状態はニュースで見ていたそのままでした。私はこの土地に関して何も知らず、この村との個人的な繋がりもないので、津波の前のこの場所がどんなところだったのかを私は知りません。いずれにせよこれが今の状態であり、もしかしたらずっとこういう場所だったのかも知れません。

倒壊した家、海に飲み込まれ、三角の屋根の一部だけが水面から覗いている家。水の中に見える破壊されねじ曲がった舗装道路の粉々になった白線が別世界への入り口のように佇み、多くの場所で海と陸の境目が曖昧になっています。

漁村へ向かう途中、がれきの撤去作業がほぼ終了した地域を通り過ぎました。目の前に広がる、何もない風景。目を凝らしてみると地面に家の土台だったものが地面に残っているのが分かります。その風景は遠くにある山の麓まで続いています。

災害後、被災地から届く映像や画像は私の心を痛め続けました。しかし、実際に被災地に足を運び、自分の目でその光景を目にすると、その哀しみが消え去り、この光景を見て浮かんできた涙も止まりました。

その代わりに「この村のために何かをする時が来たのだ」、と考えるようになりました。

東京で寄付金を募るために友人たちと一緒に作成したチャリティー用の絵はがきを取り出し、ヘルメットに貼り付け、絵はがきが運んでくれた支援、世界中の友達から受けたサポート、悲劇の中で起きた数多くの物語について思いを巡らせます。
*クリックすると拡大します
漁村には二日ほど滞在し、その間、住宅や倉庫のがれき撤去などの作業を行いました。

漁師の暮らしがどういうものなのか私はよく知りません。漁網と針以外の多くの漁業用の道具がいったい何のために必要なのかは私には見当も付きませんでした。

倉庫の中には大量の紙ゴミや粉の入った袋などが積み重ねてあり、それらは海水に浸され、巨大な米袋のように重くなっています。

業務用のハンマーを振り下ろし、テーブルやドアなどをばらし、簡単に移動出来るサイズに崩していきます。

どのくらいの時間そこにいたのかは分からないのですが、ある一件の家で作業していた時、痩せたおばあさんがやって来ました。彼女は庭に整理されて置かれた物を確認し、家の方へと足を向け、家の周囲をベルトのように取り囲んでいる縁側に腰を下ろしました。自分のような新参者はその場所の存在自体に気付いていなかったのですが、そこは庭と目の前にある海の両方を一度に視界に捕えることが出来るスポットでした。そして彼女の着ていた服と座る姿勢と彼女の背中を受け止める家とはあまりにも完全に調和していました。

ボランティアの人たちが倉庫からモノを運び出し、あれこれ壊してはトラックに積んでいくという作業を彼女がどんな気持ちで眺めていたのかは私には分かりません。ですが、そこに座って海を眺めながら魚網を直したり、夫やその他の家族が海から戻ってくる姿を見つけたり、一緒に笑ったり、喧嘩したり、孫が庭で遊ぶ姿を眺めたり、近所の人とうわさ話をしたりという彼女の日常が以前はそこにあり、津波以前の彼女の人生を私は自分でも知らないうちに想像していました。

漁村に居た二日間では、被災者の個人所有物が次々と見つかりました。本、雑誌、装飾、服、靴、皿、箸、スプーン、カセットテープ、ビデオテープ、レコード、ノートパソコンなどです。それはまるで被災した人たちのそれぞれの物語ががれきの中から断片的に明らかにされていくようでした。ある現場での撤去作業では、平成十八年の日付が刻まれた幼稚園児用のトロフィーと子供用の絵本やおもちゃを発見しました。トロフィーを手に抱え、泥や砂を拭うと出来れば考えたくない光景が脳裏をよぎります。この子がどうか幸運でありますように、と会ったこともない、男の子か女の子かも分からないその子に向かって私は思わず祈りました。

他のボランティアの人たちも作業中に時折思わず手を止め、見つけたものを数秒凝視しています。ヘルメットとゴーゴルとマスクで覆われ、顔の表情は読み取れないならがも、彼らの頭の中に浮かんでいる感情は身体のリアクションからはっきりと分かります。かつて壁であった石や海水が染み込んだ毛布や布団、たたみなどを動かすには数人で力を合わせて作業する必要があります。犠牲になった人たちの思い出のモノたちを私たちは一つ一つ手に取って運んでいったのです。次第に身体も頭もこの地域の重さや津波にさらわれたものの重みに少しずつ慣れ始めました。新品同様だったであろうモノでも泥と砂と海水のせいで全て古びて見えます。がれきの真ん中に立ち尽くして、何を感じるべきなのかすらよく分かりませんでした。時間が空いたときに周りにいる人と共有出来る冗談や空気中をところ狭しと舞い続ける奇妙な外見の虫の話をすることくらいしか思いつきませんでした。

奇妙に思えるかも知れませんが、壁やドアを破壊し、ゴミの山の頂上にモノを積み上げていく作業は日常生活で募ったストレス解消にもなりました。以前は災害について考えると気持ちの整理が付かなくなっていたのですが、今回の旅を通じて、がれきから木、鉄、石、プラスティック、燃えるゴミ、燃えないゴミを分別するように絡み合ってしまった思想の糸が整理されていくのを私は感じていました。身体はよく出来た仕切りのように思え、自分の考えをリセットするのにとても役立ちました。

 

涙の行方、震災から6ヶ月 – 宮城ボランティア体験(2)「人の思い出を保存する」へ続く>>

 

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