イラスト・文:(つるさん)こと 鶴木賢司 

 

仮設風呂「火の国の湯」を浴び、縁台にならび涼んでいた漁師さんが、「カネになる海だよ」と、ポツリ呟いた。三陸沖は豊かな漁場で知られ、水揚げ高を誇ってきた。この漁業が恐ろしいまでの打撃をうけた、なかでも養殖は壊滅した。志津川湾の被災前写真には所狭しと生け簀や筏がならび、カキ、ワカメ、ホヤ、銀サケが養殖されていた。それらがすべて流されてしまった、損失は莫大。被災から数ヶ月、ようやく復興・再建への歩みがはじまった、RQは地元の方々に協力、養殖復活への動きをサポートしてきた。画集では、気仙沼市唐桑地区ではじまった再建へのうごき、これを手伝うRQボラをイラスト化した。

 

№23 気仙沼市唐桑地区 ワカメ養殖用アンカー(土俵)作り 2011.7下旬(JT)

 ワカメ養殖ではアンカーとして、約60キロの砂利を詰めた「土俵」と呼ぶ土のう袋を多数使う。RQ唐桑で活動したボラは、地元漁師の指導をうけ手伝った。「つるさん」は参加できなかったが、炎天下で土のう袋に砂利を詰めるのは過酷だったと聞く。しかし、それをリピートするのもRQボラの心意気だ。

 

№24 気仙沼市唐桑地区 カキ養殖の再建・種カキを運ぶ 2011.9.15(JT)

 三陸産カキは高級品、壊滅した養殖再建に向けうごきはじめた。カキ稚貝をホタテの貝殻に付着させ、ロープに挟み筏に吊るし育てる。RQは筏用木材の山からの搬出、種カキのロープ挟みこみ、筏へ吊るす作業を手伝った。イラストはロープに挟んだ種カキを筏まで船で運搬するシーンである。

 

№25 気仙沼市唐桑地区 養殖筏に種カキを吊るす 2011.9.15(MH)

ロープに挟みこんだ種カキは、山で伐採され組み立てられた筏に吊るされる。筏の組み立ても大変な
作業だったときく。イラストは地元の方が種カキを吊るしてゆくシーン。カキが育って商品になるまで
2年あまりかかるそうだ。この作業は、ほんらい春先に行われるが震災で大きく遅れた。

 

№26 気仙沼市唐桑地区 養殖筏を養殖場へ曳航する  2011.9.15(JT)

陸で組み立てられた筏は、船で養殖場に曳航され据付けられる。この筏の下でカキは育ち、やがて立派な商品になる。南三陸の郷土料理に「カキの一夜干し」があるそうだ、焼いて食すとそうとう美味らしい。

 

№26 気仙沼市唐桑地区 養殖筏を養殖場へ曳航する  2011.9.15(JT)

陸で組み立てられた筏は、船で養殖場に曳航され据付けられる。この筏の下でカキは育ち、やがて立派な商品になる。南三陸の郷土料理に「カキの一夜干し」があるそうだ、焼いて食すとそうとう美味らしい。

 

№27 気仙沼市小泉地区 ガレキ隊~全員集合!~ボラ仲間の笑顔 2011.6.28 or 29(OF)

一日の作業をおえたあとの心地よい疲労感と達成感は、震災ボラへのご褒美かも知れない。珍しく全員集合しパチリ、その笑顔がなんとも素晴らしかった。震災ボラは究極の一期一会、きのうまで見ず知らずの人が集まり、被災現場でともに力をあわせ汗を流し働いた。そして、名前を覚える間もなく別れてゆく、この繰りかえしだった。それでも誰もが懸命にはたらき、和気あいあいと語り、助け合った。朝ギクシャックした動きがすぐスムーズになり、誰に指示されることもなく、それぞれが自分の役割を見つけ動いて機能する、またたく間に立派なチームが成立した。難問があれば、だれかが知恵をだし、だれかが協力して行動する、その姿は驚きであり、清々しくなんども感動した。とても無理だと思えた重量ガレキを撤去したことが何度もあった、「○○の奇跡」といって互いに達成感を共有した。

 RQで、『目は臆病、手は鬼』という言葉を知った。被災現場を目にしたとき、あまりの惨状に尻込みするが、作業にかかると人の力の偉大さが現われるということだ、これが実感できるのもボラ現場である。
 
 震災ボラたちの住まいはバラバラ、「つるさん」が出会った仲間は、日本全国、北は北海道から南は沖縄まで、そして国をこえ参加した仲間がいた。韓国、中国、タイ、ベトナム、フィリピン、米国、ドイツ、フランス、豪州、ニュージーランド、日本に在住する人、ボラ参加のため母国からかけつけた人、なんともありがたく、頭が下がった。職業も百人百様、このボラたちが集まれば、きっとできないことはない。年令も下は13才から上は85才まで、「つるさん」は幅広い人たちと働いた。

 多くの人の善意が集まった活動であった、その誰もが見せた笑顔、そこに人と人の絆を感じとったのは、「つるさん」ひとりだけだろうか、きっと忘れえぬ思い出をもって誰もが帰路についたことだろう。

鶴のひと声、ふた声 ~ あとがきに代えて ~

 


(№28 「つるさん」とその愛車 2011.9.12(SN)(南三陸町志津川・中瀬地区、墓参共同駐車場にて)
愛車はボラ活動で「つるさん」以上に役立った。故障もせず、静岡と登米との往復、ドロにまみれながらも活動現場に多くのボラたちを運んだ。なお、「つるさん」61才、定年退職して無職、静岡県袋井市在住。

 

大震災の惨状を知ったとき、「つるさん」はボラ参加を決心した。ボラツアーに初参加するため出発するときは、いま思えば悲壮感すら漂わせていたかも知れない。初めてのことで緊張
していた。少しでも被災地の役に立ちたい気持ちも強く、肩に力が入り過ぎていた。だが、動機だけは純粋だったと思える。

しかし、参加を重ねるうち、いつしかボラで得られる満足感、達成感を求め、仲間と働くことに活動の喜び、楽しさすら見出していたのが正直なところである。動機が変質していたといってよい、ある意味で不純である。

これは、被災地の皆さんに対しては、誠に申し訳ないことで、本末転倒のそしりを甘んじて受けなければならない。ただ、動機はどうであれ、形として現場ではやれるだけのことはやったと自負している。この結果が、少しでも被災地のお役に立てたのであれば、参加した意味はあったはず。ここに救いをもとめたい。

 RQには他のボラが活躍できるよう、長期にわたり下支えに徹している人たちがいた、まったく頭が下がった。それに比べ「つるさん」は、おいしい所だけをつまみ食いしていた、これはいかがなものか、多少の負い目を感じる。次の機会(新たな災害は困る)は、改めるべきと反省している。もっとも、老人性健忘症の「つるさん」のこと、暫くすればキレイさっぱり忘れているかも知れない。

 この震災ボラで多くのことを学んだ、現場活動で必要な知識、技術はもちろん、このボラで出会った仲間から得たことは大きい。何もなければ、恐らく一生かかっても出会えない人たちだった。爪のアカを煎じて呑みたい、そう思える優れた人が何人もいた。「つるさん」が若いとき、この人たちと出会っていたならば、もっとマシな人間になれたはずと思える、そんな人がゴロゴロいたボラ現場だった。

 そして、人知れずトイレをピカピカに磨きあげ、黙って帰路につく若者がいた。被災現場を目にすることなく、百人近いボラのため毎日食事を作っていた人がいた。マッサージでボラたちを癒そうとRQに通ってくれた被災者がいた。RQのため、毎日まいにち自宅の風呂を開放する鱒渕の人たちがいた。
ボラの食事にと新鮮な野菜、魚を届けてくれる地域の方がいた。全国から被災者のためにと、支援物資を送ってくれる人々がいた。「つるさん」60余年の人生、これほどの善意の存在を知らなかった。これを知っただけでも、震災ボラに参加した価値があった。世の中、捨てたもんじゃない。

 被災された皆さんとお話しする機会はなんどかあった、誰もが想像を絶する体験をされていた。思い出すたび、平静をうしなうお話も多々お聴きした。はかり知れぬ悲しみと苦しみを秘めているだろうに、誰もが努めて明るい笑顔で接し、こちらのことを気遣ってくれた。なんと強く、なんと優しい人たちだろうか。この三陸の皆さんが、一日でも早く平穏な生活を取り戻されるよう、心からお祈りしたい。

 最後に、活動でお世話になったボラ仲間の皆さん、そして、このイラスト集に写真を提供いただいた仲間の皆さんに心からお礼申し上げたい。

2011/11/5 (つるさん)こと 鶴木賢司

 

6回にわたってお届けしたこのレポートは、RQでボランティア活動に参加されたつるさんが、ご自宅に戻られてから丁寧にまとめて下さった「東日本大震災 震災ボラ・イラスト集(配布版) 2011年・悲しみの光景と絆 「つるさん」と「ボラ仲間」がみた被災地」のイラストとそれに添えられたつるさん自身の手になる解説を、つるさんの許可を得て編集を加えずそのまま掲載するものです。つるさん、すてきなイラスト集の掲載を快く受けてくださりありがとうございました!
※すべてのイラスト・文章の著作権はつるさんに帰属します。一切の転載・転用は固くお断りします。

 

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