〜広瀬敏通 2011年5月7日(土)東京本部「現地ボランティア説明会」にて〜
【RQ市民災害救援センター活動レポート・番外編】

 
 

カンボジア内戦から救援活動

広瀬です。「日本エコツーリズムセンター」というのは、全国で110人の世話人の方々らが、様々な形で「地域を元気に」する活動をしているネットワーク組織ですが、その代表を務めています。エコツーリズムセンターを創る前は、「ホールアース自然学校」というのを30年程やってきました。現在、自然学校は全国に3700あるのですけども、その最初の一校です。

さらにその前は、20代の頃に個人NGOの活動をやっていました。1979年にはカンボジアで内戦がおきて、数十万の人たちがバタバタと倒れ、その難民キャンプをなんとかしようと世界中から人が集まってきた。そのカンボジアの難民キャンプの救援活動が世界的なNGOの誕生の場だと言われています。日本でもJVCやシャンティなどが生まれました。その当時私がともに仕事した仲間と一緒に、1982年に国際緊急援助隊というのを作りました。世界ではたくさんの虐げられた人たちとか、悲惨な目に遭う人たちが突然生まれてしまい、それに対する救援は地元の政府や機関だけではできない、そのためにいろいろな人たちが専門を持ち寄ってやりましょうという組織を作った。それが今、国の機関となって、世界の救援にあたっています。
 
私はずっと民間の立場でやっているので、その後も、自然学校をやりながら、阪神淡路大震災やインドネシアなど国内外の災害地に出かけて行って、救援活動をやってきました。ただ、災害活動の専門家ではありません。専門は自然学校だし、地域を元気にする様々な活動です。ですので、どこに行って何をやっても、一時的な体制でやり、終了します。その後も、阪神でも中越でも、被災地の状況に関わってそこに人を送り込んだり、ワークショップをやったりの活動は続けたりしますが、基本的にはそれを仕事にしているわけではありません。
 

東日本大震災とRQのはじまり

 
3月11日、あの日私はここで研修をしていました。そしたらグラグラグラときてしまって、長い横揺れがずっと続いた。船酔いになった人もでてしまったくらいの地震でした。そのあと、ご存知のように交通機関がずっと止まったので、ここで皆さんと寝泊まりし、尋常ではない災害だと思いました。

3月13日に、福島まで行くことができました。これは甚大な広域災害であり、エコツーリズムセンターだけではとても対応できない、ということがすぐわかったので、広く仲間を募ろうと呼びかけ、14日にRQ市民災害救援センターの土台になる活動が生まれました。現在は、100を超える団体が集まって、RQを作っていますが、「組織」ではないのですね。あくまでも、この災害のために、この災害で生まれた多くの被災者の方たちをなんとか救援しようということで生まれた「ネットワーク」の活動です。「RQ」というのは「レスキュー」の略です。
 
私たちのこの活動のベースになっているこの災害の特徴についてお話しします。これまで体験している災害は、全部、局地災害でした。どこかで地震が起きても、そこに飛び込んでいけば、外から支援はいくらでもできた。ところが今回は、予想されている東海地震とかとほぼ同じ大きさの地震が発生した。それはどういうことかというと、右も左も縦も横もどっちを向いても、被災地ばかりがずっと延々と続く。500キロメートルに及ぶ海岸線が全部やられているわけです。そうするとそこに飛び込んで行っても、基本的な物資も支援の手も届かない、というわけです。というわけで、私たちはそもそもの戦略を考え直しました。最初仙台から入ったのですが、仙台の街中は比較的いいし、そこには政府機関やNGO組織がぞくぞくと入ってくることはわかった。だからもっと北の方をやろうと思いました。
 
そこで、転々と三回場所を変えて、宮城県の登米に拠点を置くことを決めた。それは、そこからだと扇の要のように、石巻から気仙沼までどこでもほぼ等距離でいけるのです。非常に効率的だし、活動のベースとしてはうってつけだということで、そこに場所を据えました。ここのところ、一つのポイントなのですが、仙台に比較的近い石巻の専修大学のキャンパスには、何十というNPO/NGOが集まっています。政府機関も集まっています。社会福祉協議会と民間のボランティアセンターが隣り合わせでありたくさんの人たちがいます。これは最初仙台で予想した通りの姿です。
 
でもそこから少し北を見ると、全く支援の手が入っていないし、被災者の情報すらない。これは3月18、19日頃の話ですが、未だに物資すら届いていない所がたくさんある、ということで、私たちは北に行くことにして、登米にベースを置いて、今日までやってきています。五月初めまでに、およそ330トンくらいの物資を、4300人を上回るボランティアの手で届けたり、様々な活動を作ったりしてきています。
 

地元の縁や土地勘がないと入れない

 
この連休でようやくいろいろな団体が来るようになりました。でも連休前まではほとんどNPOなどの活動は見られなかった。気仙沼とかピンポイントで来ることはありましたが、そこに腰を据えて活動するという姿はなかなかありませんでした。石巻にはたくさん来ているが、こちらには来ていない、という状況がずっと続いていた。それはなぜかというと、中越の時などは比較的無事な建物も多く、現場やすぐ隣の村にベースを置いて活動することができましたが、今回は、広域的に被災して全部つぶれているわけです。そこで、バックヤードの集落や街には、被災者の方が様々な形で入り始めていた。被災した人たちが皆そこに避難場所として入るわけです。私たちが行った時は、こうしたバックヤードの地域にはまだ避難所というのはなかったのですが、全部「避難所予定」ということで民間の人には貸してもらえませんでした。土地勘がないと、全く入ることができない地域だったのです。

私たちは、幸い地元の「くりこま高原自然学校」を主宰している佐々木豊志が、自分の自然学校が3年前の栗駒地震で被災し、そのときに応援してくれた様々な人たちが、この三陸沿岸の町の人たちで、その人たちとの縁で、人間関係をつないでいくことができました。その結果、鱒淵小学校という廃校になった小学校の体育館を借りることができたのです。このように、場所を確保するということが非常に大変というのが、この災害の特徴で、それがNPO/NGOなど民間の団体が苦戦しているひとつの理由です。
 
民間のNPO/NGOの方は、ではどうしているかというと、社会福祉協議会(社協)という団体がありますよね、いろんな町に。そこがこの4月の中下旬になってボランティアセンターを開設してきました。そこに登録してその社協の中で活動している団体がだいぶ出てきています。私たちは、社協のボラセンができる前から活動をしていたので、純民間の独自の活動という形で続けています。
 
社会福祉協議会って何かというと、日頃は民生委員とか児童委員とかをやっている団体で、福祉関係のセクションです。行政の外郭団体として、社会福祉法人としてやっています。そこの皆さんが、日頃、福祉ボランティアというのを管轄しており、ボランティア保険などもここが管轄していることが多いわけです。そこが阪神震災以降、全国に災害ボランティアの研修をしなければいけない、担当するセクションが必要だ、ボランティアだから社会福祉協議会だ、という話になってきたのです。でも、社協は日頃は福祉ボランティアをやっている団体なのですが、「災害ボランティア」というのは、また全然違うボランティアなのです。そのへんが、行政の人にはよくわからないために、そもそもずっと今日まで問題になってしまっています。
 
社協の皆さんは、普通事務局の方とパートの方が二人くらい、そんな体制でやっているところにこんな災害が起き、ボランティアが押し寄せたらとても受けきれないですよ。ということで、機能麻痺に陥ってしまって、ボランティアの受け入れがずっと今日まで滞ってしまったという背景もあるわけです。そんな中で、私たちは活動拠点と多彩な活動を独自にどんどん拡げてきました。
 
活動が広がったのは土地勘があったのと、もうひとつは人間的な信頼関係を築いてきたということです。名刺を渡して肩書きを名乗っても相手は信用しない。特に田舎の皆さん、しかも被災者の皆さんは、肩書きなど失っているわけですから。そういう人たちとの信頼関係をつなぐというのは、本当にこちらが誠心誠意真剣に向き合うということしかないわけです。口先だけでなく活動を通して「あいつらは信用できる」というように見ていただき、続々と公民館とかお寺とか地域の集会所とかを貸していただけるようになりました。それが各地に展開している現在のボランティアセンターです。ボランティアセンターという名乗り方をしていない所を含めて、6カ所ですね、このような活動場所が生まれてきています。
 

まずは物資から

 
活動の内容を少しご説明します。
 
これまでの活動だとまず自分が入っていって、コーディネートしながらボラティアをどんどん送り込み、いろいろな場所に被災者の人たちの緊急的な避難所を作って運営し、身の回りの落ち着きを取り戻すまで、いろいろな支援をする。そして落ち着きを取り戻したあとは、子どもやお年寄りや様々な人が、それぞれの理由でストレスを溜め込むので、それをやわらげるようなプログラムを行う、それがこれまでのパターンでした
 
今回は、それはずっとあとに回した。なぜかというと、物資がとにかく緊急的に必要だったのです。おびただしい数の人たちから私たちは話を聞いているのですが、津波で流されて生き残った人たちは、みんな危機一発なんです。本当によく生き残ったなあ、ハリウッドの映画のようなストーリーばっかりです。津波の中泳いで島に辿り着いて助かったという畠山信君の話もそうですね。とても普段考えられるようなストーリーではない。たくさんの人たちが、そういう生き残り方をしているわけで、当然身の回りのものは何も無い。ですから、そこに私たちは、食糧や着るものや寝るものやいろんなものをどんどん送り届けて行った。一日多い時には車25台、それぞれが、3ピストン、4ピストンと一日フル回転して膨大な物資を送っていった。そういう活動をまずやってきました。
 
ただ物資は、避難所にいる方にとって、いくらでももらいたいと思ってもできないのです。なぜかというと、枕元のほんのわずかなスペースしかモノを置けないからです。だから、毎日少しずつ渡すしかない。それは現在も続いています。そういう中で、大きい避難所と、避難所には指定されていない被災していない家に、親類縁者や地区の人が5家族10家族と共同生活をしているところが、ものすごい数ありました。そこは登録されていないために、公的な機関からの物資はいきません。そこを私たちがどんどんケアする、という作戦を立ててやってきました。
 
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